Tak Matsumoto Side


1961年3月27日生まれ、大阪府豊中出身。
つい最近まで、B型だと思っていたらしいが実はO型だと判明したそうな(^^;
彼のおばあちゃんが呉服屋を営んでおり、実は結構お坊ちゃまだったとか。
両親は二人とも音楽好きで、父親は学生時代グリークラブで活躍していたし母親はクラシックファンだったという。兄弟のことはあまりしゃべらないので分からないが、兄がいるらしい。
大阪には、小学3,4年ごろまで住んでいたが父親の仕事の都合でそれから東京に引っ越した。


<幼稚園時代>
大阪の豊中駅付近の「梅花幼稚園」に2年保育で通っていた。坊ちゃん刈りで、とても心が優しい少年で、目立たない子どもだったらしい。いかにもお坊ちゃまお坊ちゃましていて周りがけんかをはじめるとすぐに止めにはいったりという優しい一面がエピソードとして残っている。


<小学校時代>
近所の公立小学校に進んで野球にのめり込み、将来の夢は野球選手!と本気で目指していた。朝から晩まで、野球のことばかり考えていたらしい。
その頃、野球と並行して親に勧められて始めた習い事に、エレクトーンがあった。しかし野球にばかり熱中して、どうしても練習をさぼりがちになってしまった。そしてついには先生が自ら松本邸に出向き、「月謝は返すので、もうやめてくれませんか」と頼まれてしまったらしい。そして晴れて野球に専念できるようになった彼だが、そんなころ野球選手への夢とともにもうひとつ、新たな夢が出来たという。
当時、松本家には一匹のボクサー犬がいた。そしてその犬と遊ぶのが大好きだった彼は、なぜか「獣医さんになろう!」と思い立つのである。
心優しい少年だったのに間違いはないが、成績はあまりかんばしくなかったらしい。たった一度だけ、社会のテストで100点をとったのが最高だという。その時の範囲は「登呂遺跡」。両親はあまりにも喜んで、なんと彼を連れてわざわざ静岡の登呂遺跡まで足を運んだというエピソードがある。
さて、東京に引っ越した彼だが今のルーツになる音楽を最初に聴いたのは小学校高学年の頃だった。初めて自分でシングル盤を買い、何度も聴いたのはローリングストーンズの「悲しみのアンジー」だったという。


<中学校時代>
中学時代は「燃えよドラゴン」をきっかけに映画にはまり、毎週日曜日になると映画を見にでかけるという時期もあったという。日比谷映画館で新作を見て、名画座で昔の作品を見て…という具合に、とにかく何百本も見た。その当時になりたかったのは映画評論家だそうで、映画の感想文もかなり書いたという。
が、やはりだんだん音楽にのめり込んできた彼は中学3年の誕生日のときに母親にプレゼントされたビートルズのベスト青盤を、擦り切れるほど熱心に聴き込んだという。このレコードは、音楽のルーツを話す時には彼の口から必ず出るほど、松本孝弘にとって重要な一枚である。
そして友人に聴かされたのがきっかけでディープパープルにはまった彼は、なかでもギタリストのリッチー・ブラックモアに憧れていたという。
そして、受験が終わるや否やギターを買いに走った。その時買ったギターは、グレコのレスポール・モデルで、7万円ほどだったらしい。


<高校時代>
小平市にある錦城高校(当時は男子校だった)に入学した彼は、よくある「ギター少年への道まっしぐら」だったらしい。レッド・ツェッペリンやディープ・パープルなどを聴きまくって、多い時は1日10時間ほども練習していた。
部活はハンドボール部に入っていたがギターばかりの毎日だったため練習にはあまり出なくなったという。「体育会系のノリがだめだった」らしい。
得意科目は英語だったという。これは今の彼を見てもなんとなくわかるが。
錦城高校では、卒業時に漢詩集を作る。彼は、こんな漢詩を書いている。

       弱光
  冬弱光静流   寒風貫我身
  思君独登丘   更心悲慕君
  (冬の弱光静かに流れ   寒風は我が身を貫く
  君を思ひて独り丘に登り 更に心悲しく君を慕ふ)


<高校卒業後>
その頃、どうにかして大学受験を逃れたかった彼は、「俺はギタリストになるんだ!だから大学へは行かない!」と両親に宣言し、とりあえず無試験の英語の専門学校へ入学した。
しかしその後、車の免許を取った彼は今度は車にはまってしまい、授業にはほとんど顔を出さないどころかギターも弾かずに車に熱中する日々が続いたという。
彼の車好きは今も健在で、現在はマスコミも知っているオフィシャルな車と、乗る時にだけナンバーを付ける超プライベートな車を所有している。
まぁ、そんな日々にさすがに危機感を感じたのかどうかは分からないが、19の時彼は「代々木ミューズ音楽院」というジャズの専門学校へ入学する。彼が本当に勉強したかったのはもちろんロックギターだったが、当時それを学べる学校がなかったため、仕方なくここを選んだのだ。
それについては「音楽の世界に入るにはやっぱりいろいろな知識を持ってないとまずい。ちゃんとやるなら頭が悪くちゃダメだし、徹底的にのめり込むならのめり込むで知識や技術の裏付けが必要だと思ったから。」と語っている。
しかし、ジャズの要素をむりやりロックにあてはめようとしてもなかなかうまくいかず、結局煮詰まってしまったらしい。そんなときある先生が「どうせ君にジャズの理論を教えてもぜんぜん使ってくれないから、ロックにつかえる理論を教えてあげよう」とアドバイスしてくれ、学校に通い続けるつもりだった彼に「君は学校を辞めて、実践でやったほうがいいんじゃないか」と助言したのだという。そして2年ほど通った専門学校を辞めて、彼はギター一本で音楽界に踊り出たのだ。


<セッションミュージシャン時代>
専門学校在学中に、彼は米軍ハウスで知り合ったドラマーとともに「マクベス」というバンドを組んでいた。結局そのバンドは一度コンテストに出たきり消滅してしまったというが、そのころFENCE OF DIFENCEのマネージャーの目にとまったことがきっかけでスタジオ・ミュージシャンとしての活動をスタートさせた。
それから彼には、いろいろなバンドやグループの仕事への参加のオファーが数多く舞い込んだ。そのような仕事を無難にこなしていくうちに、現在の「プロデューサー・松本孝弘」の基盤が作られたのだ。
ちなみに、初仕事は秋本奈緒美の学園祭ライブのバックバンドだったらしい。
そして、浜田麻里のサポート・ギタリスト時代には、現在B'zのサポメンをやっている増田隆宣氏と出会っていたりと(彼とは旧知の仲なんですねぇ)、今の活動にも重要な影響がうかがえる時期を送った。
また、そのころプライベートで「うるさくてゴメンネBAND」というお遊び的なバンドも結成している。キーボードに難波氏、ドラムスにそうる透氏…と、強力な顔ぶれがそろい、なんとツアーやレコードの発売までしてしまっているという。しかしそれぞれが超多忙なため現在は活動を休止しているが、つい最近になってライブハウスでゲリラ的にライブを行なったそうだ。このライブには松本孝弘本人も出演し、久しぶりの「うるさくてゴメンネBAND」を楽しんだようだ。
また、このバンドの活動休止には彼がTM NETWORKのサポート・ギタリストを始めてとても忙しくなったことも大きく関係しているという。


<TM NETWORK サポメン時代>
彼がTM NETWORKのサポメンをやっていたのは有名な話だ。TMが彼を起用したきっかけはというと、もともとTMは前出のFENCE OF DIFENCEのギタリスト北島氏をサポメンで頼んでいたが、スケジュールの都合がどうしてもつかなくなってしまった。そして自分の代わりに…と小室氏に紹介したのが、松本孝弘その人だったのだ。
ピンチヒッターとして始めたサポートの仕事だったが、彼は次第にTMにはなくてはならない存在になっていった。TMのギタリスト木根氏は、元々ばりばりとギターを弾く人ではなかったし、TMの楽曲もそれほどギターを必要としなかった。そんな中彼は木根氏のかわりに(?)ギターソロも担当するようになったのである。
そうすると、ステージングの練習もしなくてはならなくなったらしい。練習メニューの中で彼が最もいやだったのが「ダンス」。本当にいやでいやでたまらず、レッスンから逃走することもあったというからよっぽどいやだったのだろう。(笑)確かに、彼がダンスの練習をしてる姿を想像すると…、、、。
そんな中で、「自分の音楽性を重視したバンドを組んでみたい」という思いが強くなっていったのである。
そして晴れてB'zを結成することになったのだが、デビュー直前にも彼はTMのロンドンレコーディングに参加、デビュー後もしばらくはTMのサポメンとして活躍していた。
こうした彼の下積み時代があったからこそ、今のスーパーギタリスト&プロデューサー・松本孝弘があるのだ。



こうして彼は、1988年にB'zという最強のバンドを結成したのである。











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